民国34年8月に第二次世界大戦が終結すると、カイロ宣言の取極めに従って、日本は1895年以降に中国から取得した領土を返還することになります。10月25日に中華民国政府は陳儀を派遣して台湾を接収し、台湾行政長官公署を設立すると、台北州は台北県へと改称して連震東に託し、北投庄は北投鎮に改称して、鎮長を政府より任命しています。關渡宮は光復後に北投鎮公所の管轄となり、日本統治時代の管理人制度を受け継いでいます。

  光復初期、關渡宮前にある關渡街は、淡水河が北投鎮へ流入する出入口であると同時に、關渡駅に向かう唯一の通路であり、長年の戦乱で著しく損壊していましたが、民国39年に關渡街に住む陳紅英と關渡宮の管理人であった陳水藤が発起人となって、修復費用を募り、住民の寄付を得て工事を行っています。当時、關渡宮も修復の必要性に迫られていましたが、管理機関であった北投鎮公所には予算がありませんでした。そのため、民国42年に陳紅英と媽祖の加護を受ける多くの關渡の漁民、北投鎮長の廖樹と副鎮長の郭元礼、關渡宮の管理人陳水藤、關渡里長の黄元寿といった人々の支持の下で、再建委員会が発足しています。陳紅英は「再建人」に任命され、關渡出身の漁民と建築業界関係者の黄定らが参加しています。

  新しい社殿は民国43年の年末に起工し、46年に完工していますが、前方に媽祖、後方に観音の二殿、両脇に三官大帝・文昌帝君・註生娘娘を祀る伝統的な造りとなっています。この度の修復記念碑は建てられていませんが、關渡宮正殿四隅の金の石柱にはそれぞれ廖樹・郭元礼・陳水藤・黄元寿の四人の署名が残され、再建工事が北投鎮公所の主導で行われたことを示しています。また、乾隆47年(西暦1782年)に陳紅英は鄧大鳳が建てた金の石柱4点に「重建人陳紅英」(再建人陳紅英)の署名を残し、さらに黄定と共に拝殿の花鳥柱を寄贈しています。その後は民国51年まで政府と市民で關渡宮を共同経営する形をとり、北投鎮公所が管理人を任命し、民間で造営事業を担い、民国46年には黄定が陳紅英の跡を継いでいます。

  新しい社殿は民国43年の年末に起工し、46年に完工していますが、前方に媽祖、後方に観音の二殿、両脇に三官大帝・文昌帝君・註生娘娘を祀る伝統的な造りとなっています。この度の修復記念碑は建てられていませんが、關渡宮正殿四隅の金の石柱にはそれぞれ廖樹・郭元礼・陳水藤・黄元寿の四人の署名が残され、再建工事が北投鎮公所の主導で行われたことを示しています。また、乾隆47年(西暦1782年)に陳紅英は鄧大鳳が建てた金の石柱4点に「重建人陳紅英」(再建人陳紅英)の署名を残し、さらに黄定と共に拝殿の花鳥柱を寄贈しています。その後は民国51年まで政府と市民で關渡宮を共同経営する形をとり、北投鎮公所が管理人を任命し、民間で造営事業を担い、民国46年には黄定が陳紅英の跡を継いでいます。

  民国52年にグロリア台風が台北に上陸すると、淡水河の積水はなかなか引かず、關渡宮対岸の観音山から淡水河へと連なる山並み「獅子頭」と、關渡丘陵から淡水河へと細長く伸びた地形(象鼻山)が天然のダムを形成し、漁場として利用されていましたが、台風時には淡水河下流の排水を妨げる要因であったことが発覚します。

  民国53年には政府が「獅子頭」を爆破し、象鼻山の山頂にあった慈航寺と57軒の民家を転移させて地形を平らにならし、淡水川の河道を広げた結果、關渡地域の地形と容貌は大きく変化しています。このような局面に際して、黄定は陳有福ら地方の権力者を集めて、關渡宮再建組織の発足を画策します。当時、廟関連の管理組織は「(廟の名称)管理委員会」と名乗ることが慣例でしたが、關渡宮は独自に「董事会」(取締役会)を発足したため、政府の許可がなかなか下りず準備期間に停滞し、黄定は初代理事長を務めています。

  黄定は朝天宮の「五軒起」建築様式を關渡宮に当てはめることを構想し、潘澤漢、潘澤儀ら建築士の協力を得て構造設計を行っています。具体的には、正殿にあたる媽祖殿の土台を10尺ほど積み上げ、三川殿の建築線を50尺ほど前方へ移し、「五軒起三縦列」の建築様式を採用して、正殿の天井を高くし、両脇にあった部屋を観音殿と文昌殿へと造り変え、正殿に媽祖、左に観世音菩薩を祀る観音仏祖殿、右に文昌帝君・関聖鄭君・註生娘娘を祀る文昌帝君殿を置く形をとっています。元の観音殿は三階建ての凌霄宝殿へと改築し、一階の財神殿は知行路まで通路を開削し、駐車場を建造しています。また、古仏洞と新築の千手観音殿から展望台へと至る通路をつなぎ、象鼻山の家屋を解体・移転した際に残された石材を用いて、裏山の霊山公園を整備しています。

  三川殿と正殿の建造工事は民国54年から58年の期間にほぼ完成し、木構造は名匠の黄亀理に委託して造り、媽祖・観音・文昌三体の神仏像を新たに彫刻しています。同時期に黄定は自ら増資して關渡宮裏の千坪余りの山地を買収し、廣渡寺を建立しています。中央の本堂は黄定が全額出資して建設したため、役員会議では黄定家代々の先祖を祀ることが決議され、前方に地蔵王菩薩を祀り、左右の建造物は一般の信徒が先祖を祀る空間となっています。その後の工事では、薬師仏祖殿を建立して薬師仏を祀り、両脇の社殿には500体の観音菩薩立像と「信士長生禄位」(読経を通じて他者への恩返しに用いる位牌)を祀り、廊下には十八羅漢を祀る等して、民国59年に竣工しています。民国58年には神事を行うための天壇を三川殿前に造り、關渡宮の中門と向き合う形で、祭日の神事(演劇)に用いています。拝殿の両脇には鐘楼と鼓楼、左側には功徳堂を建てて歴代の廟の創設者や功労者を祀り、こちらも民国59年に竣工しています。

  古仏洞を造営した時期に三階建ての凌霄宝殿の建設に着手し、同時に財神洞の掘削を台湾省水利局に申請していましたが、許可が下りず、民国71年に莊阿螺が会長に就任してから起工し、元観音殿から掘り進めて淡水河まで開通させると、参拝者用に出口付近に福徳正神殿を増築し、入口左側には「香客大楼」(参拝客用ビル)を建設しています。民国73年に完工し、黄定が会長職に復帰すると、財神洞の右側前方にあった淡水河の砂採掘場を關渡宮から200万元の補償金を支払う形で移転させ、同地に参拝客用の駐車場を建設しています。財神洞・香客大楼が竣工すると、続いて凌霄宝殿を六階建てに増築し、民国75年に竣工しています。陳有福は任期内に図書館を建設し、民国89年に竣工、同年8月には陳林福が会長職に就任して、任期内に財神洞内の建築構造を補強し、洞内の門神、神殿の網目構造、「神龕」(神明を設置する場所)の網目部分の木彫を新調し、新たに金箔・彩色を施して、石壁の透かし彫りと木彫の「天上聖母の事跡」14点を完成させ、凌霄宝殿内部の改装を施しています。民国92年には名匠に委託して、伝統的な手法で前殿を修復し、前殿の木構造と天井の網目構造の修復、ならびに金箔・彩色を施し、屋根装飾(剪粘)、殿内殿外の石彫、門神の木彫を新調して、伝統と現代建築の美を融合させています。前殿の修復工事は民国94年に竣工し、民国96年には更に關渡宮外部の坂に「天上聖母靈應神蹟」(天上聖母顕現の事跡)69点を新たに彫り、媽祖の物語と關渡宮の沿革を記録しています。民国100年には香客大楼の修復工事に着手し、民国102年から103年にかけて薬師仏殿の天井画を修復、薬師仏の金箔を貼り直して、十八羅漢と両脇の観音立像を新たに彫刻し、薬師仏用の灯具を増設して、信徒の平安を祈願しています。

  民国34年の台湾光復から現在にかけて、關渡宮は当初、北投鎮公所の管轄下に置かれていましたが、民国43年から46年に管理と再建に携わった者には陳振榮、洪金火、廖樹、陳水藤らが挙げられ、権力者では陳紅英、黃元壽、黃定らが関わっています。民国52年にグロリア台風が襲来した後は、黃元主導で民間管理組織の設立準備が始まり、民国58年に正式に取締役会を成立させています。歴代の会長には潘杉、莊阿螺、陳有福、陳林富、黃正雄らが就任し、心を尽くして経営してきた結果、關渡宮は台湾北部において建築物としても媽祖信仰の中心地としても輝かしく、後世へと語り継がれることでしょう