關渡の山地には平埔族の北投社・嗄嘮別社・唭哩岸社の三つの原住民族集落がありますが、漢民族が入植してからは、次第に漢民族の利用地が増え、平埔族の集住地さえも漢民族の集落へと取って代わられています。一方で、台湾北部最初の媽祖廟は關渡に建設され、漢民族の住む八里や淡水もしくは原住民族の集落地ではなく、漢民族と平埔族の生活圏の中間に位置し、互いにとっては安全な交渉・話し合いの場所で、取引の要所でもありました。關渡宮内の龍柱に「北投社弟子潘元坤、劉士損、金佳玉仝喜助」(北投社三名の署名)と刻まれているのも、平埔族と漢民族の交流が盛んであったことを示し、当時、両者が共存していた最良の証拠と言えます。

  淡水河沿いに台北盆地を顧みると、最初に風水で言うところの「獅象捍門」(獅子と象が入口を守るかのような地形)が目に入り、關渡の山間後方には見渡す限りの水田が広がり、山沿いには幾つかの村落が見られます。周囲の峰は護衛のように辺りを囲い、河沿いの街道は貿易でにぎわうと同時に、客船が頻繁に行きかっています。漢民族の移住・開墾当初は、安全性と取引上の利便性から水路が主な交通手段として利用され、陸路は平埔族各社の脅威を回避するために避けられていました。また、文献には關渡門上流の水路と船舶の渡し口、ならびに各番社との関係が描かれ、河をさかのぼる水路は南と北二港の二路線あり、南西の「南港水路(大漢渓)」は擺接社(現在の板橋)まで、北東の「北港水路(基隆河)」は峰仔嶼(現在の汐止)までとなっていました。途中、武朥灣社、大浪泵社では船舶の停留も可能であったとされています。

  關渡の古道の起源は既に推測不能となっていますが、古い文献には關渡が漢族と原住民族に隔てられていた時代から、古道のような小道が淡水と北投をつなぐ通路であったと考えられています。關渡地域に漢人の街が出現してからは、庄と庄をつなぐ山道は徐々に発達します。陸路による往来が頻繁になり、運輸の需要がさらに高まると、山麓の河道沿いに発達してきた小道は、広い道路へと開拓されました。また、小道も村道へと変わり、さらには県道となって車の往来する時代へと突入していきます。

  日本統治時代には、淡水鉄道の關渡駅建設に合わせて、關渡・淡水地域の庄長、士林支庁長等が台北庁に対して当時の道路状況と需要に関する請願を提出し、施工にはさらに沿路の住民が道路建設に携わり、1902年12月に道路の拡張工事と江頭駐車場の建設が竣工しています。道路開通後は台湾光復以降も利用され、道路の南側が工業区として画定されると、關渡鉄道沿いに多くの現代工場が出現するようになりました。

  淡水鉄道は關渡門から始まった水路の歴史に終止符を打ち、さらに1988年に淡水鉄道最後の列車が引退してからは、1997年に「淡水モノレール」に取って代わられ、關渡駅も北東へと移転し、現在の場所に落着しています。