言い伝えによると、1895年に關渡宮の傍にあった三本の老木が突如、一夜にして枯れ死んだと言われています。このことから地域の住民は、やがて訪れる災難に対する媽祖の警告と受け取り、その後、日本軍が關渡を占領してあちこち焼き討ちをかけましたが、事前に予期していたために、住民は災難を免れたとされています。似たような伝説は数多く、文献にも残されていますが、例えば1906年7月11日には「生き返りの奇跡」と題した報道記事が見られます。

  關渡宮の西側近くに位置する玉女宮は關渡媽祖と縁深く、その創設に関しては、關渡媽祖顕現にまつわる麗しい伝説が残されています。宮前広場の石碑「玉女娘娘真蹟與關渡玉女宮言沿革」(玉女伝説と關渡玉女宮の沿革)によると、中国大陸から台湾に渡った林鉄公には林善道という名の息子がいましたが、結婚後なかなか子宝に恵まれず、その後熱心に媽祖に祈ったところ、一人の娘を授かったと言われています。「玉女」と名付けられた娘は、幼少より仏縁が絶えず、よく母親と共に關渡宮に参拝し、普段は目を閉じて静座しては一人で呟き、娘いわく媽祖が教えを説いていたためとしています。玉女が16歳になり、淡水北部で干ばつが続いた時期には、荘縣丞を務めていた于清瀚がある晩に玉女が雨乞いをしている夢を見て、さっそく人を迎えに遣り、縣衙に場を設けて玉女が雨乞いの儀式を行うと、すぐに雨が降り出したと伝えられています。18歳になると玉女は身を清めて天へ駆けたとされ、林善道夫婦は家宅を廟として寄付し、娘の像を建てて祀ったのが玉女宮の起源とされています。

  「關渡劃流」は清代著名の『淡水庁志』の「淡北八景」の一つとされ、「坌嶺吐霧」(観音山)、「戍臺夕陽」(紅毛城)、「淡江吼濤」(淡水港口)、「屯山積雪」(大屯山)、「蘆洲泛月」(鷺洲)、「劍潭夜光」(劍潭)、「峰峙灘音」(汐止)の七景とあわせて、台湾北部の山水名勝と言われています。關渡門は淡水・基隆河の合流地点であるため、河水と海水が交わる部分の水の色は濃淡がはっきりと分かれ、このような奇観を「關渡分潮」と呼んでいました。また、このような景色を題材にした詩も多く作られましたが、残念ながら1964年には淡水河防災計画によって河口が開拓され、川床が浅くなったことから、海水と河水の交わる景色は永遠に失われることになります。

  「關渡三潮」は關渡の奇観に対するもう一つの称賛ですが、潮が満ちると淡水河口に流れる潮水(青色)と基隆河(鼠色)、淡水河大漢渓、新店渓(青緑色)が合流し、水の色が三色にはっきりと分かれることから、三潮の奇観を形成しています。關渡宮裏山公園にはかつて台湾省政府主席、国防部長を務めた陸軍一級上将の黄杰が筆を起こした「關渡三潮勝地」の文字が刻まれ、このような美景の証となっています。1964年に關渡の河口が開拓されると淡水河には大量の海水が流れ込み、淡水河流域に生息していた貝類・シジミ類・桜エビ等が相次いで絶滅し、シチトウも次第に潮水と共にメヒルギにとって代わられ、現在の關渡の紅樹林が形成されるようになりました。