(一)天官賜福
  天官大帝とは「上元賜福天官一品紫微大帝」のことで、「中元赦罪地官二品清虛大帝」と「下元解厄水官三品洞陰大帝」の二名の大帝と併せて「三官大帝」と呼ばれています。天官は玉清境に属し、青黄白の三気から成り、諸天の帝王を代表し、毎年1月15日に人界に降りて人々の罪と福を評定することから、天官賜福と呼ばれています。この日に人々は「天官賜福神」の掛け軸を掲げ、夜には子供達が華やかな提灯を下げて歩き、天官賜福神を迎えます。また、天官は「員外郎」(官禄を象徴)、「南極仙翁」(長寿を象徴)と併せて「福・禄・寿」の三星を成し、春節(旧正月)には各家で三星図が飾られ、縁起を担いでいます。

(二)文比財神
  文比財神は商朝の宰相比干であるとされ、紀元前1092年夏暦4月4日に生まれ、紀元前1029年冬十月26日に没し、享年63歳であったと伝えられています。比干は殷帝丁の二人目の子で、帝乙の弟で、帝辛(紂王)の叔父にあたり、少師(丞相)を務めていました。幼い頃から賢く勤勉で、二十歳で太師として帝乙を補佐し、その後、帝辛を補佐する役目も担うことになります。40余年に渡って政治に携わる中で、納税・労役の負担軽減を主張し、農牧業の発展を助け、富国強兵を提唱しました。後に紂王に諫言したため、心臓を切り開かれて死ぬことになります。玉皇上帝は比干の死後、その実直な人柄と愛国心を認め、無実の罪によって殺されたことから、文財神の神号と乗物として金の孔雀を与えています。

(三)季倫財神
  季倫財神はまたの名を金財神と呼び、天庭の財務を管理する禄星にあたります。言い伝えでは、季倫財神は晋朝の石崇(西暦246~300)とされ、字を季倫、呼び名を齋奴とし、渤海南皮(現在の河北)の出身で、晋朝の開国元老石苞の末の子で、幼少の頃から賢く勇敢で、二十歳余りで武修令となり、有能なために散騎郎となって城陽太守を務め、呉国討伐で手柄を立てたことで安陽侯に封じられ、荊州の刺史官を経て衛尉卿まで登りつめています。石崇は晋朝でも有名な富豪で、皇帝よりも裕福で中国史上最高の金持ちと言われ、伝説によると死後に金銭を管理する禄星となったと言われています。

(四)武明財神
  武明財神は姓を趙、名を朗・玄朗、字を公明もしくは光明とし、終南山の出身で、旧暦3月16日を聖誕日と定められています。また、一般には玄壇元帥もしくは趙玄壇、玄壇爺、銀主公と呼ばれています。『邦神演義』によると峨媚山羅浮洞の洞主趙公明が武王の紂王討伐の際に殷の滅亡を助けたとされ、後に「金龍如意龍虎玄壇真君」の神に封じられ、四名の正神を率いて吉を迎えて福をもたらし、逃亡者を捕らえる責を負っています。四名の部下はそれぞれ招宝天尊、納珍天尊、招財使者、利市仙官とされ、財を求める者に信奉されています。

(五)万山財神
  万山財神は沈万三、元朝の人で、本名を富、字を仲栄としています。万三は浙江呉興県(現在の湖州)の人で、先祖が平江路(明朝の蘇州府)長洲県(現在の江蘇蘇州)東蔡村に移住したとされています。事業で名を挙げたことから、沈万三は富豪の代名詞ともなっています。言い伝えによると、嘉靖年間の嚴嵩が執政していた時代に、浙江嘉興県のとある丙辰進士が二万三千銀両で吏部の考功司主事の役職を買収し、当時の人々に「沈万三官」の呼び名を付けられたとされています。また、万歴年間に刊行された『金瓶梅詞話』にも「南京沈万三」の記述が見られることから、富裕な身分であったことは遠く各地に知れ渡っていたことが窺えます。